
豊臣秀吉は何をした人か? そんな疑問を持ってこの記事にたどり着いた方は多いでしょう。豊臣秀吉がしたことは、日本の歴史を大きく変える数々の偉業です。
農民の子として生まれ、戦いに次ぐ戦いで頭角を現し、ついには天下統一を果たした彼のすごいところは、その行動力と知恵、そして人を惹きつける力にあります。


この記事では、生年月日や年表など豊臣秀吉の人生を簡単にわかりやすく整理し、何歳で死んだのかまでを含め、豊臣秀吉の生涯を徹底解説します。
- 豊臣秀吉の生い立ちや出世の経緯
- 豊臣秀吉がしたことや主要な政策
- 豊臣秀吉の戦いや天下統一までの流れ
- 豊臣秀吉の年表や何歳で死んだか
目次
豊臣秀吉は何をした人?生い立ちと織田信長との関係がすごい

生い立ちと織田信長への士官
豊臣秀吉の生年月日は、旧暦1537年2月6日(現在歴1537年3月17日)。尾張国愛知郡中村郷(現在の名古屋市中村区)で生まれました。
父は木下弥右衛門、母は仲(後の大政所)という貧しい農民の家庭でした。幼名は「日吉丸」と伝えられていますが、実際のところは諸説あります。
貧しい生活から抜け出したい一心で、18歳頃に織田信長に小者(こもの)として仕えることになります。
最初は下僕のような立場からスタートしましたが、持ち前の機転の良さで頭角を現していきました。織田信長の身の回りの世話から始まり、やがて雑兵として戦場にも出るようになります。
結婚と改名
1561年、25歳の時に浅野長勝の養女であるねね(後の高台院)と結婚しました。
結婚を機に「木下藤吉郎」と改名します。ねねは生涯を通じて豊臣秀吉の良き伴侶となりました。子宝には恵まれませんでしたが、夫婦関係は良好で、豊臣秀吉が全国統一を成し遂げた後も常に側で支え続けています。
戦場での活躍
1568年の観音寺城の戦いでは、織田軍と六角氏との戦いで活躍しました。
戦場での機転の良さや采配の才能が認められ始めたのも、この頃からです。織田信長の副将として六角氏の拠点である観音寺城攻略に参加し、功績を挙げることで織田家中での地位を向上させていきます。
1570年の金ヶ崎の戦いでは、織田信長が朝倉・浅井連合軍に敗走する際、殿軍として織田信長の退却を援護しました。
苦境に立つ織田信長を身を挺して守り、この功績で織田信長の信頼を一層深めることになります。金ヶ崎の戦いでの豊臣秀吉の活躍は、織田家における地位確立の大きな転機となりました。
羽柴への改姓と城主就任
1572年、36歳の時に木下から「羽柴」に改姓しました。
「羽柴」という姓は織田信長から与えられたもので、織田信長家臣団における地位向上を示すものでした。織田家の有力家臣としての地位を固めることに成功します。
1573年、37歳の時には浅井氏の小谷城攻めに参加しました。
浅井氏滅亡後、領地の一部である近江長浜城の城主となり、初めて一国一城の主となります。長浜では治世の才能も発揮し始め、街づくりにも尽力しました。商工業の振興に力を入れ、城下町として長浜を発展させています。
本能寺の変と中国大返し
1582年、46歳の時に豊臣秀吉の人生を大きく変える出来事が起こります。
備中高松城の水攻めを行っている最中に本能寺の変が発生し、織田信長が明智光秀に討たれてしまいました。豊臣秀吉は急遽、毛利氏と和睦して京都へ向かう「中国大返し」を断行します。
6月13日の山崎の戦いでは、明智光秀軍4万に対し、豊臣秀吉軍1万6千という兵力差にも関わらず、明智光秀を撃破しました。
迅速な行動と勝利によって、豊臣秀吉は織田家の後継争いで主導権を握ることとなります。
清洲会議での主導権掌握
織田信長の後継を決める清洲会議で主導権を握り、織田家の実権を掌握しました。
織田信長の嫡男・信忠も本能寺の変で亡くなっていたため、三男の信孝と四男の信雄らの間を調整し、自らの発言力を高めます。京都と尾張を中心とする織田信長の領土を3分割し、豊臣秀吉は京都・伊勢など最大の権益を得ることに成功しました。
この頃から「平」姓を名乗るようになります。
豊臣秀吉何をした人?戦い・天下統一からの政策がすごい

賤ヶ岳の戦いでの勝利
1583年、47歳の時に織田家の権力継承を巡って柴田勝家と対立しました。
賤ヶ岳の戦いで勝家を破り、織田家の後継争いに勝利します。賤ヶ岳の戦いでは、豊臣秀吉が重用した「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれる若手武将たちの活躍が目立ち、豊臣秀吉の人材登用の目の確かさが示されました。
本拠を大坂城に移し、豊臣政権の基礎を築き始めます。
小牧・長久手の戦いでの政治的勝利
1584年、48歳の時には徳川家康・織田信雄連合軍と対立しました。
大規模な戦いとなりましたが、最終的に和議を結んで実権を固めます。豊臣秀吉軍は戦術的には不利でしたが、政治的駆け引きで織田信雄を寝返らせることに成功し、徳川家康を孤立させました。
従五位下・左近衛権少将、さらに従三位・権大納言という高い官位を受け、武家としては異例の出世を遂げています。
関白就任と天下統一・全国平定
1585年、49歳の時に紀州を平定し、四国へ侵攻して長宗我部元親を降しました。
3月に正二位・内大臣、7月には従一位・関白に任じられます。武家出身では初の関白となり、朝廷の権威を背景に天下人としての地位を確立しました。近衛前久の猶子となり、「藤原」姓を名乗るようになります。
1586年には九州征伐を開始し、朝廷から「豊臣」の姓を賜りました。
「豊臣」の姓は豊臣秀吉自身が選んだもので、「豊かで民を助ける」という意味を込めています。翌年12月に内大臣を辞職し、太政大臣を兼帯し、政治・軍事両面で絶大な権力を持つに至りました。
1587年には島津氏を服属させ九州を平定し、1590年の小田原征伐により後北条氏を滅ぼして天下統一を達成しました。
奥州仕置により東北の大名も服従させ、名実共に全国を統一することに成功します。
刀狩令による社会制度改革
1588年、52歳の時に全国に刀狩令を発布しました。
農民から武器を取り上げることで一揆を防止し、兵農分離を進めるためです。「百姓が刀や脇差、弓、槍、鉄砲などの武器を持つことを固く禁じる」として、取り上げた武器は大仏の釘や鎹にすると宣言しました。
刀狩令は武士と農民の身分的分離を明確にし、近世社会の基盤を形成する重要な政策でした。
太閤検地による土地制度改革
1591年、55歳の時に身分統制令を制定し、太閤検地を実施しました。
太閤検地は全国的に統一基準を設け、正確な土地の測量と石高の確定を行うものです。年貢徴収の適正化と土地所有権の明確化を図り、近世の土地制度の基礎を築きました。
農民を土地に縛り付け、武士との身分制度を明確化する社会改革でもありました。
文化・経済政策
豊臣秀吉は政治・軍事面だけでなく、文化面でも大きな功績を残しています。
1587年には京都の聚楽第に転居し、10月1日には北野天満宮で大規模な茶会「北野大茶湯」を開催しました。身分を問わず多くの人を招き、800から1500もの茶屋が設けられています。
特に金箔を貼った茶室を設け、「黄金の茶室」として人々の目を驚かせました。
しかし、1591年には茶道の大成者・千利休に切腹を命じています。切腹の理由については諸説ありますが、天下人として自分の権威を脅かす存在を許さなかった豊臣秀吉の一面も見える出来事でした。
豊臣秀吉何をした人?朝鮮出兵と晩年の政策もすごい

文禄・慶長の役
1592年から1598年にかけて、豊臣秀吉は朝鮮出兵を行いました。
文禄の役(1592-1593年)と慶長の役(1597-1598年)と呼ばれる二度の出兵で、明国征服を目指した海外進出政策でした。しかし、予想外の抵抗に遭遇し、朝鮮水軍の活躍や明軍の介入により戦況は膠着状態となりました。
キリスト教弾圧政策
1587年にバテレン追放令を発布し、キリスト教の布教を制限し始めました。
1596年のサン=フェリペ号事件をきっかけに、キリスト教への弾圧が強化されます。1597年には長崎で26人のキリスト教徒を処刑(二十六聖人の殉教)し、キリスト教禁教政策を強化しました。
秀次事件
1593年に側室・淀殿との間に秀頼が誕生しましたが、1595年には関白職を譲っていた甥の秀次を失脚させ、高野山で切腹させました。
秀次の一族も粛清し、秀頼への後継者交代の障害を取り除く意図があったとされます。聚楽第も取り壊され、豊臣秀吉の政治的権力基盤も再編されました。
死去と後世への影響
1598年、62歳の時に太政大臣を辞職し、8月18日に伏見城で病死しました。
死の直前に五大老(徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家)・五奉行を任命し、幼い秀頼の後見を託しています。
豊臣秀吉の亡き後、築いた豊臣政権は内部対立から徐々に弱体化し、やがて徳川家康との関ヶ原の戦いや大坂の陣を経て滅亡することとなりました。
1915年、大正4年11月10日には明治政府により正一位を贈られ、死後300年以上を経て、豊臣秀吉の歴史的功績が公式に認められています。
豊臣秀吉がしたこと・すごいところ【年表とまとめ】

西暦(和暦) | 年齢 | 内容 |
1537年 (天文6年) | 1歳 | 誕生 尾張国中村郷で貧しい家に生まれる。父は弥右衛門、母は仲。幼名は日吉丸とも言われるが諸説あり。 |
1554年 (天文23年) | 18歳 | 織田信長に仕官 織田信長に小者として仕官。当初は下僕的立場だったが、機転の利く働きで頭角を現し、雑兵として戦場にも出た。 |
1561年 (永禄4年) | 25歳 | 結婚 浅野長勝の養女ねねと結婚、「木下藤吉郎」と改名。ねねは生涯を通じて秀吉の良き伴侶となり、政治的にも支えた。 |
1568年 (永禄11年) | 32歳 | 観音寺城の戦い 観音寺城の戦いで活躍。信長の副将として六角氏攻略に貢献し、戦場での機転や采配が評価され、織田家中で地位向上。 |
1570年 (元亀元年) | 34歳 | 金ヶ崎の戦い 金ヶ崎の戦いで信長が朝倉・浅井連合軍に敗走する際、殿軍として退却を援護。信長を守り信頼を深め、地位確立の転機に。 |
1572年 (元亀3年) | 36歳 | 羽柴に改姓 木下から「羽柴」に改姓。この姓は織田信長から与えられ、織田家の有力家臣としての地位向上を示すものだった。 |
1573年 (天正元年) | 37歳 | 小谷城の戦いと長浜城主 小谷城の戦いに参加。浅井氏滅亡後、近江長浜城主となり初の城持ちに。長浜の街づくりに尽力し商工業を振興した。 |
1575年 (天正3年) | 39歳 | 筑前守の官位 筑前守の官位を受ける。武将としての地位が公認され、この頃から朝廷の官位に関心を持ち、後の関白就任へ繋がる。 |
1576年 (天正4年) | 40歳 | 石松丸(長男)死去 長浜城主時代に側室・南殿との間に生まれた長男・石松丸(羽柴秀勝)が7歳で病死。初めての実子を失った。 |
1577年 (天正5年) | 41歳 | 手取川の戦いと信貴山城の戦い 手取川の戦いで上杉謙信と戦い苦戦するも奮闘。信貴山城の戦いにも参加し軍功を重ね、独自の軍団を率いるようになる。 |
1578-1580年 (天正6-8年) | 42-44歳 | 三木合戦と但馬平定 三木合戦で播磨の三木城を攻略し但馬・播磨を平定。領地を拡大し織田家の重鎮となる。「総構え」戦術を用いた。 |
1582年 (天正10年) | 46歳 | 本能寺の変と山崎の戦い 備中高松城水攻め中に本能寺の変。信長が光秀に討たれる。「中国大返し」後、山崎の戦いで光秀を破り後継争いで優位に。 |
1582年 (天正10年) | 46歳 | 清洲会議 清洲会議で主導権を握り織田家の実権掌握。信長の後継者問題と領地配分で発言力を高め、最大の権益を得た。「平」姓を名乗る。 |
1583年 (天正11年) | 47歳 | 賤ヶ岳の戦い 賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り、織田家の後継争いに勝利。「賤ヶ岳の七本槍」が活躍。本拠を大坂城に移し豊臣政権の基礎を築く。 |
1584年 (天正12年) | 48歳 | 小牧・長久手の戦い 小牧・長久手の戦いで徳川家康・織田信雄連合軍と対立。戦術的には不利だったが政治的駆け引きで和議、実権を固めた。 |
1585年 (天正13年) | 49歳 | 紀州征伐と四国攻め、関白就任 紀州征伐、四国攻めで長宗我部元親を降す。7月に関白に任じられ、武家初の関白として朝廷の権威を背景に天下人の地位を確立。「藤原」姓を名乗る。 |
1586年 (天正14年) | 50歳 | 九州征伐開始、豊臣姓を賜る 九州征伐を開始。9月に朝廷から「豊臣」の姓を賜り豊臣秀吉と名乗る。「豊かで民を助ける」の意味。太政大臣も兼帯し絶大な権力を持つ。 |
1587年 (天正15年) | 51歳 | 九州平定、バテレン追放令、北野大茶湯 九州を平定し島津氏を服属。バテレン追放令発布。聚楽第へ移り、北野天満宮で大規模な「北野大茶湯」を開催し権威を誇示した。 |
1588年 (天正16年) | 52歳 | 刀狩令と聚楽第行幸 全国に刀狩令を発布し農民の武器を取り上げ兵農分離を推進。後陽成天皇の聚楽第行幸で権威を示し、琉球に入貢を要求。 |
1589年 (天正17年) | 53歳 | 鶴松誕生 側室・淀殿との間に鶴松が誕生。待望の実子誕生に歓喜し、後継者に指名した。 |
1590年 (天正18年) | 54歳 | 小田原征伐と天下統一 小田原征伐で後北条氏を滅ぼし天下統一を達成。奥州仕置も行い全国を統一。朝鮮に入朝を要求し明国征服の意図を示した。 |
1591年 (天正19年) | 55歳 | 身分統制令と太閤検地、千利休切腹 身分統制令と太閤検地を実施し近世の土地制度の基礎を確立。農民を土地に縛り武士との身分を明確化。茶人・千利休に切腹を命じた。 |
1592年 (文禄元年) | 56歳 | 関白辞任と文禄の役開始 関白職を甥の秀次に譲るも太政大臣は維持。4月から朝鮮出兵(文禄の役)を開始し明国征服を目指したが、現地の抵抗に苦戦した。 |
1593年 (文禄2年) | 57歳 | 秀頼誕生と伏見城移転 側室・淀殿との間に秀頼が誕生。鶴松が既に亡くなっていたため、秀頼が新たな後継者と目された。本拠を伏見城に移し、朝鮮からの撤退も検討。 |
1595年 (文禄4年) | 59歳 | 秀次事件 関白職の甥・秀次を失脚させ高野山で切腹させ、一族も粛清。実子・秀頼への後継者継承の障害を取り除くためとされる。聚楽第も破却。 |
1596年 (慶長元年) | 60歳 | サン=フェリペ号事件と慶長伏見地震 スペイン船サン=フェリペ号事件を機にキリスト教への警戒を強め弾圧を強化。慶長伏見地震で伏見城や方広寺大仏殿が大きな被害を受けた。 |
1597年 (慶長2年) | 61歳 | 慶長の役とキリシタン弾圧 二度目の朝鮮出兵(慶長の役)を開始。明との和平交渉決裂が原因。長崎で日本人信者を含む26人のキリスト教徒を処刑し禁教を強化。 |
1598年 (慶長3年) | 62歳 | 死去 太政大臣を辞し、8月18日伏見城で病死。死の直前に五大老・五奉行を任命し、幼い秀頼の後見を託した。死後、豊臣政権は弱体化。 |
1915年 (大正4年) | - | 贈正一位 大正4年11月10日、明治政府より正一位を追贈される。死後300年以上を経て、その歴史的功績が公式に認められた形となった。 |
豊臣秀吉は何をした人かまとめ【主な功績とそのすごさ】
この記事全体の要点を以下にまとめます
- 農民の出身から天下人へと成り上がった
- 織田信長に仕えて機転や才覚で頭角を現した
- 観音寺城や金ヶ崎の戦いで織田信長を救い信頼を獲得した
- 羽柴姓を賜り織田家の有力家臣となった
- 小谷城主となり長浜の町づくりや商工業の発展に貢献した
- 本能寺の変後「中国大返し」を成功させ明智光秀を討った
- 清洲会議で主導権を握り織田家の実権を掌握した
- 賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り後継争いに勝利した
- 関白に就任し武家出身で初の関白となった
- 九州や四国、小田原征伐で全国統一を達成した
- 刀狩令や太閤検地で身分制度と土地制度の基礎を築いた
- 北野大茶湯や黄金の茶室など文化事業も推進した
- 朝鮮出兵で海外進出を図ったが失敗に終わった
- キリスト教布教の制限と弾圧政策を実施した
- 晩年に秀頼を後継とし五大老・五奉行体制を作った
参考文献:
造事務所(2024). 『1日1テーマ30日でわかる戦国武将』. 文響社.
今井林太郎(1988). 『石田三成 人物叢書 』. 日本歴史学会 編集. 吉川弘文館.
柴裕之(2022). 『徳川家康 境界の領主から天下人へ(中世から近世へ)』. 平凡社.
歴史と文学の会(1996). 『豊臣秀吉─天下人への道─』. 勉誠社.
志村有弘(1996). 『川角太閤記─日本合戦騒動叢書9─』. 勉誠社.
ルイス・フロイス.松田毅一・川崎桃太訳(2023). 『完訳 ロイス日本史』. 中央公論新社.