
関ヶ原の戦いと聞いて、徳川家康や石田三成の名前が真っ先に思い浮かぶ方も多いでしょう。しかし、「島津義弘 関ヶ原」と検索してこの記事にたどり着いたあなたは、きっとその裏側にあるドラマや、義弘の謎めいた行動に興味を持っているのではないでしょうか。
結論から言えば、島津義弘は「無謀」ではなく「計算と覚悟」で戦った武将です。彼が関ヶ原で動かない選択をしたのも、敵中突破という前代未聞の撤退を敢行したのも、全ては薩摩の家を守るための現実的な決断でした。


「関ヶ原 島津 なぜ」と疑問を抱いた方が知りたいのは、義弘がなぜ戦わず、そしてどうやって薩摩に帰還できたのか、その撤退ルートの詳細でしょう。実際、島津軍が選んだルートは常識を覆すような過酷な道のりでした。
さらに、その後の政治的立場や島津義弘の死因、そして後世に語られる数々のエピソードも、知れば知るほど人間味あふれる彼の姿が浮かび上がってきます。
この記事では、「島津義弘の関ヶ原での撤退」の実態や、「島津の捨てがまり」と呼ばれる戦術の意味、そして「関ヶ原で島津義弘が行った敵中突破」がどのように成し遂げられたのかまで、詳しく紐解いていきます。
- 島津義弘が関ヶ原で動かなかった理由と背景
- 島津軍による敵中突破と捨てがまりの戦術
- 薩摩までの撤退ルートとその過酷さ
- 関ヶ原後の島津義弘の立場や死因に関する情報
島津義弘の関ヶ原での決断と戦術

なぜ関ヶ原で動かないのか
島津義弘が関ヶ原の戦いで慎重に行動し、最終的に敵中突破を行ったことは、後世に多くの謎と議論を残しました。
まず、西軍内での島津家の立ち位置が微妙だったことが大きいです。島津義弘は西軍に属していたものの、石田三成と特に深い関係があったわけではなく、徳川家康との関係も完全に断ち切っていたわけではありませんでした。つまり、西軍内での「主導権争い」に巻き込まれず、様子を見ていた可能性が高いのです。
さらに重要なのは、島津軍の兵力は約1,500人と他の大名に比べて圧倒的に少なく、戦局を変えるような積極的な動きをするのは現実的ではありませんでした。無理に動けば全滅は避けられなかったでしょう。
また、開戦前から西軍のまとまりのなさや、戦略面での不安が感じ取れていたという指摘もあります。義弘は経験豊富な戦国武将であり、戦の空気を読む力に長けていました。勝ち目が薄いと判断していたなら、安易に行動を起こさないのは当然です。
いずれにしても、義弘の「動かない」という選択は消極的というよりは、現実的な判断だったと見るべきでしょう。
関ヶ原での撤退理由
島津義弘が関ヶ原の戦いで撤退を決断したのは、生き延びて薩摩に戻ることが家中の存続に直結していたからです。つまり、敗戦の中でも「家を守る」ための決断でした。
戦が始まる前から、島津軍は少数でありながらも最前線に配置されていました。いざ東軍が勝利し始めると、義弘たちは完全に孤立状態に陥ります。このとき、戦場に残れば討ち死にするのは確実でした。
しかし、義弘はここであえて前方突破を選びます。普通であれば後退するのが自然に思えますが、背後にはすでに東軍が迫っていました。進むしか道が残されていなかったのです。
この撤退は単なる逃走ではありません。敵の正面を突破するという、命がけの賭けでもありました。家臣の多くを犠牲にしてでも主君を帰還させる、まさに島津家の忠誠心と武勇を象徴する決断だったといえます。
敵中突破の真相とは

関ヶ原の戦いにおける島津義弘の「敵中突破」は、日本の戦国史における最も劇的なエピソードの一つです。その真相は、単なる奇襲でも撤退戦でもなく、生き残るための全力行動でした。
通常、戦場で敗走する軍は四方を囲まれ、多くは壊滅してしまいます。しかし島津軍は、敵の中央を突破し、そのまま押し切って撤退するという離れ業を見せました。これが「敵中突破」と呼ばれる所以です。
この作戦のポイントは「前に進むしか生き残る道がない」という絶望的な状況下での選択だったこと。背後には包囲が迫り、左右からは矢が飛び交う中、中央突破という非合理な選択が、結果として最も合理的だったのです。
島津家の家臣たちは、主君義弘の馬の前をわざと横切り、敵の攻撃を受けて犠牲となることで進路を開きました。この行為は後に「捨てがまり」として語り継がれています。
このように、「敵中突破」は計算された戦術というよりも、忠義と覚悟によって成し遂げられた最後の一手だったのです。
捨てがまり戦法とは何か
「捨てがまり(捨て奸)」とは、味方を守るために自らを犠牲にして敵を引きつける戦法であり、島津軍の撤退戦において重要な役割を果たしました。
具体的には、島津義弘を安全に撤退させるため、少人数の家臣たちがあえて戦場に留まり、敵の注意を引きつけ続けたのです。結果として多くの家臣が命を落としましたが、その犠牲によって義弘は無事に生還できました。
この戦法は、通常の軍略ではほとんど使われない究極の防御とも言える方法で、部下の忠義心と統率力がなければ成立しません。島津家がいかに結束力の強い集団だったかが、この戦法からもよくわかります。
以下は捨てがまりの特徴を簡単にまとめた表です。
項目 | 内容 |
---|---|
目的 | 指揮官の撤退を援護する |
方法 | 一部の兵が残り、敵を引きつける |
成功の条件 | 高い忠誠心と戦術理解 |
結果 | 指揮官の生還、多数の犠牲 |
このように、捨てがまりはただの“命を捨てる”行動ではなく、戦術的にも深い意味を持った戦法だったのです。
関ヶ原撤退ルートの全貌

関ヶ原の戦いで敗北したあと、島津義弘がどのようなルートで薩摩へ帰還したのか——これは日本戦史の中でも屈指の劇的な逃走劇として知られています。実際のルートは、ただの「逃げ道」ではなく、命がけの知略と判断の連続でした。
敵中突破から始まる異例の撤退
戦いが終盤を迎えた頃、島津義弘は敵軍に完全に包囲される形になっていました。普通であれば山や林を使ってこっそり退くところですが、島津軍はあえて敵の真正面を突破して戦場を離脱します。この「敵中突破」が、義弘の命運を分けた最初の選択でした。
美濃から伊勢・紀伊へ、南へ南へと進む
戦場を抜けた後、義弘たちはいったん東へ向かい、美濃(現在の岐阜県南部)に入ります。ここでは東軍の勢力圏内を通らねばならず、かなり危険な状態でした。にもかかわらず、義弘は強行的に伊勢(三重県)へと進軍。伊勢に入ることで、東海道などの主要街道を避け、紀伊(和歌山県)方面に抜けることが可能になります。
この紀伊半島を回るルートは、平野部を避けて山間部を進む経路で、道は険しく、補給も難しいものでした。しかし東軍の追撃の目が届きにくいため、選択としては最も現実的だったのです。
海路を使い、薩摩へ
紀伊半島南部に到達した義弘は、ここから海路を使って九州を目指し、薩摩へ帰還しました。当時の薩摩藩は現在の鹿児島県にあたりますが、そこに戻るには本州から船で渡らねばなりません。義弘は旧知の商人や漁民たちの協力を得ながら、海上移動によって東軍の監視をかいくぐり、ようやく薩摩へ帰還します。
全体ルートを図解で整理
以下に、島津義弘の撤退ルートを時系列でまとめた表を示します。
段階 | 経路 | 現在の都道府県 | 特記事項 |
---|---|---|---|
① | 関ヶ原 → 美濃 | 岐阜県 | 敵中突破直後、混乱の中で南下開始 |
② | 美濃 → 伊勢 | 三重県 | 東軍勢力下を通過、危険度高し |
③ | 伊勢 → 紀伊 | 和歌山県 | 山道を進み、追撃をかわす |
④ | 紀伊 → 薩摩 | 鹿児島県(船) | 海上ルートで九州入り、薩摩へ帰還成功 |
なぜこのルートが可能だったのか?
このような過酷な撤退が成功した背景には、いくつかの要因があります。
- 島津軍の兵たちが非常に訓練されていたこと
- 地元豪族や商人との人脈が活かされたこと
- 義弘自身が冷静かつ迅速な判断を続けたこと
それに加え、敗戦直後にもかかわらず士気が保たれていたというのも大きな要因でした。普通の軍であれば、戦意を喪失し逃散していたはずですが、島津軍は「主君を守る」という一点で団結し続けていたのです。
島津義弘の関ヶ原後の影響と最期

関ヶ原の戦後処理と評価
関ヶ原の戦いが終わった後、日本全体に大きな影響が広がりました。特に敗軍側にいた西軍の武将たちは、所領を失ったり処罰を受けたりと、厳しい運命に直面します。その中で島津義弘の扱いは、かなり特異でした。
義弘はあれほど激しく戦いながらも、最終的に徳川家康から直接的な処分を受けることはありませんでした。なぜなら、戦場を敵中突破で脱出し、捕らえられなかったからです。戦後処理の際、徳川側は島津家の影響力を考慮し、あえて深追いしなかったとも言われています。
また、義弘の撤退戦があまりに見事だったため、敵方の中でも「島津の武勇は敵ながらあっぱれ」と評価されていた記録も残っています。このように、彼は「敗者」でありながら「侮れない存在」として、戦後も一目置かれていたのです。
その後の政治的立場
関ヶ原から帰国した島津義弘の立場は、以前とは大きく変わりました。とはいえ、すぐに失脚したわけではありません。
帰国後の義弘は、名目上は隠居という形を取り、家督を息子の島津忠恒に譲りました。しかし実際には政治や軍事の影響力を持ち続け、薩摩藩の中で強い影響力を残していたのです。
その一方で、徳川幕府からの視線は冷たく、島津家に対してはしばらくの間、幕府との直接的な交流を避ける姿勢が取られました。これは、島津家が独自性を貫いていたことに加え、義弘自身が幕府に強く頭を下げることを避けていたためです。
このように義弘は、徳川体制の中ではやや「異端」の存在となりながらも、領地を守り抜き、実質的に独立した大名のような立場を保ち続けました。
関ヶ原以後に語られたエピソード
島津義弘にまつわる話は数多くありますが、関ヶ原の戦い以後にも、後世に伝わるエピソードがいくつか残されています。これらは義弘という人物のキャラクターや信念を伝える重要な手がかりとなっています。
例えば有名なのは「白鞘(しらさや)の刀」の話です。義弘が戦場からの撤退時、装飾のない白鞘の刀を腰に差していたとされます。これは、飾り気のない実戦向けの刀であり、「見た目ではなく実力で戦う」という彼の信条を象徴するものだと言われています。
また、撤退の途中で義弘が自らの命を絶つ覚悟で「辞世の句」を書いていたという逸話もあります。最終的に助かりましたが、死を覚悟した上で行動していたことがわかるエピソードです。
このような話は後世の脚色も含まれるかもしれませんが、義弘の「生き様」が多くの人に語り継がれる理由でもあります。
島津義弘の死因に関する記録

島津義弘は関ヶ原の戦いから20年近く後、慶長18年(1613年)に亡くなりました。享年85歳という、当時としては非常に長寿の部類に入ります。
島津義弘の死因については明確な記録が残されていませんが、享年85歳という長寿を考えると、老衰や自然死であった可能性が高いと推測されます。
なお、義弘は晩年も剣術や軍事の研究を続けていたとされ、精神的にも肉体的にも衰えを見せにくい人物だったと伝えられています。特に目立った病気の記録がない点からも、「静かに人生を終えた武将」という印象が残されています。
また、彼の死後、葬儀は薩摩藩内で極めて厳かに行われ、多くの家臣や民衆が悲しんだといいます。義弘の人格と功績が、それだけ多くの人に慕われていた証といえるでしょう。
島津義弘と関ヶ原の歴史的意義
島津義弘と関ヶ原の戦いは、単なる一戦にとどまりません。歴史的に見れば、義弘の行動は「戦国時代の終わり方」に大きな問いを投げかけた存在でもあります。
というのも、徳川家康が勝利した関ヶ原の戦いは、武断から文治への転換点とされますが、義弘のようにあくまで武士の矜持を貫いた人物の存在があったことで、「戦国武将の理想像」が形として残ったのです。
また、義弘の敵中突破や撤退の美学は、江戸時代を通じて「忠義の象徴」として語り継がれました。幕末に薩摩藩が大きな影響力を持つようになるのも、島津家の中にこのような誇り高い精神が受け継がれていたからかもしれません。
つまり、義弘と関ヶ原は、単なる一人の武将と一つの戦ではなく、日本の武士道と政治の変遷を象徴するエピソードだといえるのです。
島津義弘の関ヶ原における戦術と影響|要点まとめ
この記事全体の要点を以下にまとめます
- 島津義弘は西軍に属しつつも中立的な姿勢をとっていた
- 開戦中は島津軍が動かないまま戦況を見極めていた
- 島津軍の兵力は少数で積極的な攻撃が難しかった
- 戦場の混乱と敗色濃厚の中で撤退を決断した
- 撤退時には敵の正面を突破するという異例の選択を行った
- 島津軍の敵中突破は忠義と覚悟による決死の戦術だった
- 捨てがまり戦法により家臣が身を挺して義弘を守った
- 美濃から伊勢、紀伊を経由し海路で薩摩へ帰還した
- 山間部を使い東軍の追撃を避けながら南下した
- 紀伊半島南部から船を使って九州へ渡った
- 義弘の撤退は敵方からも高く評価された
- 関ヶ原後は家督を譲るが実質的な影響力を維持した
- 幕府とは距離を取りつつ独立性を保ち続けた
- 白鞘の刀や辞世の句などの逸話が今も語り継がれている
- 島津義弘は85歳で死去し、死因は自然死とみられる
参考文献:
造事務所(2024). 『1日1テーマ30日でわかる戦国武将』. 文響社.
川口素生(2011). 『島津一族 無敵を誇った南九州の雄』. 新紀元社.
新名一(2021). 『「不屈の両殿」島津義久・義弘 関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇. 角川新書.