大友宗麟を支えた家臣たち:九州制覇を夢見た主君を巡る群像劇
大友宗麟を支えた家臣たち:九州制覇を夢見た主君を巡る群像劇

戦国時代の九州で一大勢力を築いた大友宗麟。その華々しい活躍の陰には、優れた能力と忠誠心を備えた家臣団の存在がありました。特に豊後三老大友双璧と呼ばれた家臣たちは、宗麟の九州制覇の夢を支える上で欠かせない存在でした。この記事では、大友宗麟と彼を支えた家臣団の姿に焦点を当て、家臣一覧とともに、彼らの活躍や背景をわかりやすく解説します。

結論:大友宗麟の成功は、個性豊かで有能な家臣たちの支えによって実現されたのです

宗麟一人の力じゃなかったんだね。家臣団の存在が大きかったんだ
豊後三老も大友双璧も、それぞれが重要な役割を果たしていたんだな
記事のポイント
  1. 大友宗麟を支えた主要な家臣の名前と役割
  2. 豊後三老や大友双璧などの家臣団の構成
  3. 家臣たちの個別の功績や戦での活躍
  4. 大友家の勢力拡大と衰退の背景にある家臣の動向

九州の覇者、大友宗麟とその家臣団

九州の覇者、大友宗麟とその家臣団
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戦国時代から安土桃山時代にかけて、九州の地で一大勢力を築き上げた大友宗麟(おおともそうりん)。
本名を大友義鎮(おおともよししげ)といい、その治世(1530年-1587年)は、戦乱の世にあって一際輝きを放ちました。

最盛期には豊後(ぶんご)、豊前(ぶぜん)、筑後(ちくご)、筑前(ちくぜん)、肥後(ひご)、肥前(ひぜん)の六ヶ国を支配下に置き、九州の覇者として君臨しました。

しかし、宗麟の偉業は、決して彼一人の力で成し遂げられたものではありません。その背後には、多種多様な能力と忠誠心を持つ、有能な家臣団の存在がありました。

本稿では、大友宗麟の九州統一という壮大な夢を支えた家臣たちの名前と概略をまとめ、激動の時代を生き抜いた彼らの群像劇を描き出します。  

権力の柱:主要な家臣団

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宗麟の権勢を支えたのは、単なる数の多さだけではありません。
卓越した能力を持つ重臣たちが、それぞれの役割を果たすことで、強固な支配体制を築き上げていました。

豊後三老(ぶんごさんろう)

大友家中で特に重きをなしたのが、「豊後三老」と称された三人の宿老たちです。
彼らは宗麟の最も信頼する側近として、政治や戦略において重要な役割を担いました。  

  • 立花道雪(たちばなどうせつ)(戸次鑑連(べっきあきつら):
    卓越した武勇と知略を兼ね備えた名将であり、長きにわたり大友家のために尽力しました。豊後三老の一人であると同時に、大友双璧の一人にも数えられています。
    彼の武勇は広く知られ、数々の戦で勝利に貢献しました。特に、雷に打たれて下半身不随になった後も、駕籠に乗って戦場に赴き、勇猛果敢に戦った逸話は有名です。
    また、宗麟が一時好色に溺れた際には、涙ながらに諫めたというエピソードも残っています。
    このように、道雪は単なる武将としてだけでなく、主君を導く諫臣としても重要な存在でした。  
  • 吉弘鑑理(よしひろあきまさ)(初名:鑑直(あきなお):
    知恵と行政手腕に優れた重臣であり、宗麟の義父でもありました。高橋紹運や吉弘鎮信といった有力な家臣たちの父でもあります。
    鑑理は、初め大友義鑑と父・吉弘氏直から一字ずつ賜り鑑直と名乗りました。
    父の死後家督を継ぎ、宗麟の側近として活躍し、臼杵鑑速や吉岡長増と共に豊後三老に列せられました。
    彼の存在は、大友家臣団における血縁の重要性を示唆しています。  
  • 臼杵鑑速(うすきあきすみ)(初名:鑑景(あきかげ):
    長年にわたり宗麟に忠実に仕えた、優れた軍事指揮官であり戦略家です。
    鑑速は、主君大友義鑑を支える最上位の重臣「加判衆」に登用され、その才能を発揮しました。
    宗麟の時代にも重用され、その軍事的な手腕で大友家の勢力拡大に大きく貢献しました。  

なお、初期の豊後三老には吉岡長増(よしおかながます)が数えられていた時期もありましたが、立花道雪がその地位に取って代わったとする説もあります。
長増は大友義鑑・義鎮の二代に仕え、政務面で活躍しました。彼が三老から外れた理由は定かではありませんが、大友家臣団内の勢力変動や、道雪の功績がより大きくなったことなどが考えられます。  

大友双璧(おおともそうへき)

軍事面で特に傑出した功績を挙げた二人の武将は、「大友双璧」と称えられました。  

  • 立花道雪(たちばなどうせつ)
    前述の通り、その武勇は並外れており、豊後三老としての功績に加えて、大友双璧の一人としてもその名を轟かせました。  
  • 高橋紹運(たかはしじょううん)(吉弘鎮理(よしひろしげまさ):
    その勇猛果敢な戦いぶりで知られ、特に晩年の岩屋城(いわやじょう)の籠城戦では、圧倒的な島津軍を相手に壮絶な戦いを繰り広げ、その忠義心と武勇は後世にまで語り継がれています。
    紹運は、父である吉弘鑑理と同じく大友家屈指の家臣であり、息子に立花宗茂を持つことでも知られています。
    彼の壮絶な最期は、大友家の衰退を象徴する出来事の一つと言えるでしょう。  

大友宗麟の家臣一覧

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大友宗麟に仕えた主要な家臣たちの名前、主な役職、そして簡単な解説を一覧にまとめます。

名前主な役職簡単な解説
立花道雪(たちばなどうせつ)豊後三老、大友双璧、丹後守、伯耆守、紀伊守、立花城督卓越した武勇と知略を持つ名将。雷に打たれた逸話や宗麟への諫言で知られる。
立花宗茂(たちばなむねしげ)左近将監、飛騨守、柳河藩初代藩主高橋紹運の子で道雪の養子。関ヶ原の戦いで西軍に与したが、後に旧領を回復した名将。
高橋紹運(たかはしじょううん)大友双璧、主膳兵衛、三河守勇猛果敢な武将。岩屋城の籠城戦で壮絶な戦死を遂げ、忠義の鑑と称される
吉弘鑑理(よしひろあきまさ)豊後三老、左近大夫、伊予守知略に優れた重臣。高橋紹運、吉弘鎮信の父
吉弘鎮信(よしひろしげのぶ)左近大夫吉弘鑑理の嫡男。立花城督を務め、耳川の戦いで戦死
吉弘統幸(よしひろむねゆき)嘉兵衛吉弘鎮信の子。槍の名手として知られ、石垣原の戦いで壮絶な戦死を遂げた
臼杵鑑速(うすきあきすみ)豊後三老、四郎左衛門、越中守忠義に厚い重臣。宗麟を長年支えた
臼杵鑑続(うすきあきつぐ)太郎、三郎左衛門、安房守、筑前国柑子岳城主臼杵鑑速の弟。筑前方面で活躍
吉岡長増(よしおかながます)左衛門衛、越前守、鶴崎城主豊後三老の一人ともされる重臣。政務面で活躍
朽網鑑康(くたみあきやす)中務少輔、三河守、山野城主大友氏譜代の家柄。耳川の戦いなどで活躍
志賀親守(しがちかもり)兵部少輔、安房守、岡城主大友氏の重臣。島津氏の侵攻の際に臼杵で籠城
志賀親度(しがちかのり)民部大輔志賀親守の子。義統と対立し島津氏に味方したが、後に自害
志賀親次(しがちかつぐ)小左衛門、岡城主志賀親度の子。父と異なり大友氏に忠誠を尽くし、岡城を守り抜いた
佐伯惟教(さえきこれのり)紀伊介、栂牟礼城主佐伯氏の当主。一時大友氏と対立したが、後に帰参。耳川の戦いで戦死
佐伯惟定(さえきこれさだ)権之助、栂牟礼城主佐伯惟教の孫。島津氏の侵攻に抵抗し、豊臣秀吉に賞賛された
木付鎮秀(きつきしげひで)美濃守、木付城主大友氏の重臣。耳川の戦いで殿を務めたが、田原親貫の乱で戦死
木付鎮直(きつきしげなお)中務少輔、木付城主木付鎮秀の子。島津氏の侵攻を木付城で防ぎ抜いた
田北鑑生(たきたあきなり)堪解由、左衛門、大和守大友氏の重臣。勢場ヶ原の戦いで活躍したが、門司城の戦いで戦死
田北鑑重(たきたあきしげ)紹鉄、大和守、熊牟礼城主田北鑑生の弟。宗麟に不遇をかこち、謀反を起こして討伐された
田北鎮周(たきたしげかね)相模守、刑部大輔田北鑑生の弟。耳川の戦いで無謀な突撃を行い戦死
田原親宏(たわらちかひろ)常陸介、安岐城主大友氏の有力な庶家。宗麟に追放された過去を持つが、後に帰参。晩年謀反を企て病死
田原親貫(たわらちかつら)右馬頭、鞍懸城主田原親宏の養子。大友氏に対して謀反を起こし、鎮圧された
田原親賢(たわらちかかた)紹忍、近江守、妙見嶽城督奈多鑑基の子で宗麟の義兄。耳川の戦いで総大将を務めたが敗北
利光鑑教(としみつあきのり)宗魚、武蔵守、鶴賀城主大友氏の重臣。島津氏の侵攻の際に鶴賀城で壮絶な籠城戦を行い戦死
柴田礼能(しばたれいのう)治又衛門、伊賀守、高田城主豊後一の槍使いと称された勇将。田原親貫の乱鎮圧などで活躍
若林鎮興(わかばやししげおき)道円、中務少輔、一尺屋城主大友水軍の中核。大内輝弘の周防侵攻を支援したが、耳川の戦い後は守勢に
蒲池鑑盛(かまちあきもり)宗雪、武蔵守、柳川城主筑後南部の有力大名。耳川の戦いで嫡男の離反に遭いながらも奮戦し戦死
角隈石宗(つのくませきそう)越前守大友氏の軍配者。兵法に通じ、占術や気象予測にも優れていた。耳川の戦いで戦死
佐田隆居(さだたかおき)薩摩守、宇佐郡佐田城主大内氏から大友氏に仕えた。門司城の戦いで一番乗りを果たした
佐田鎮綱(さだつな)弾正忠佐田隆居の子
斎藤鎮実(さいとうしげざね)左馬助、進士兵衛、兵部少輔、丹生城主大友氏の重臣。耳川の戦いで戦死
一万田鑑実(いちまたあきざね)宗慶、兵部大輔、小牟礼城主大友氏の庶家。宗麟の側近として活躍したが、後に義統に自害を命じられた
問注所統景(もんじゅしょむねかげ)刑部大輔大友氏の家臣。小早川秀包にも仕えた

特筆すべき家臣たちの生涯

特筆すべき家臣たちの生涯
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上記の表で挙げた家臣たちの中でも、特にその生涯が特筆されるべき人物たちがいます。彼らの活躍は、大友宗麟の時代を語る上で欠かすことのできない要素です。

立花道雪(たちばなどうせつ)

立花道雪は、戸次鑑連として生まれ、その武勇は幼少の頃から周囲を驚かせました。数々の合戦で先頭に立ち、その功績によって筑前の名門・立花家を継ぐことになります。

彼は、雷に打たれて下半身不随となりますが、それでも戦場では駕籠に乗って指揮を執り、その姿は敵味方双方に畏怖の念を抱かせました。

宗麟からの信頼も厚く、九州各地の鎮圧に奔走し、毛利氏や龍造寺氏といった強敵との戦いでも常に先頭に立ちました。また、道雪は武勇だけでなく、文化的な素養も持ち合わせており、和歌や連歌にも通じていました。

彼の晩年は、大友氏と島津氏の対立の中で戦いに明け暮れ、1585年に高良山(現久留米市)の陣中で病没しますが、その生涯はまさに武士の鑑と言えるでしょう。  

高橋紹運(たかはしじょううん)

高橋紹運は、吉弘鑑理の子として生まれ、その勇猛さは父譲りでした。筑前の高橋家に入り家督を継ぐと、立花道雪と共に大友氏の最盛期を支えました。

1586年、島津氏の大軍が筑前に侵攻すると、紹運はわずか700余りの兵で居城・岩屋城に籠城し、1万を超える島津軍を相手に壮絶な抵抗を繰り広げました。

最後は城兵と共に玉砕しましたが、その忠義と勇気は敵である島津義久をも感嘆させ、後世にまで語り継がれることとなりました。

彼の息子である立花宗茂もまた、父に劣らぬ武将として名を馳せることになります。  

吉弘鑑理(よしひろあきまさ)

吉弘鑑理は、武勇に優れるだけでなく、政治手腕にも長けた重臣でした。宗麟の側近として、内政から外交まで幅広く活躍し、大友家の勢力拡大に大きく貢献しました。

特に、筑前方面の軍事において重要な役割を果たし、宗像氏との戦いや毛利氏との戦いなどで功績を挙げました。また、息子の高橋紹運や吉弘鎮信も有能な武将として成長し、大友家を支えました。

鑑理の存在は、大友家臣団の層の厚さを示す好例と言えるでしょう。

臼杵鑑速(うすきあきすみ)

臼杵鑑速は、長きにわたり大友家のために忠誠を尽くした重臣です。特に、宗麟の父である大友義鑑の時代から仕え、その信任も厚かったとされています。

鑑速は、軍事的な才能にも優れており、数々の戦で指揮を執り、勝利に貢献しました。また、外交面でも活躍し、他勢力との交渉などを担当することもあったようです。

豊後三老の一人として、宗麟の治世を陰ながら支え続けた功労者と言えるでしょう。  

吉岡長増(よしおかながます)

吉岡長増は、大友氏の政治をよく担当した重臣として知られています。臼杵鑑速と共に「豊州二老」とも称され、政務において重要な役割を果たしました。

大内氏との戦いや、小原鑑元の謀反鎮圧、秋月文種の討伐など、数々の戦にも参加しています。また、宇佐八幡宮の政務にも深く関わり、その運営に尽力しました。

長増は、大友家の内政を安定させ、勢力拡大を陰で支えた功労者と言えるでしょう。  

佐伯惟教(さえきこれのり)

佐伯惟教は、豊後佐伯氏の当主であり、水軍を率いて毛利氏との戦いなどで重要な役割を果たしました。一時、大友氏と対立する時期もありましたが、後に帰参し、その能力を再び認められました。

耳川の戦いでは、劣勢の中最後まで奮戦しましたが、壮烈な最期を遂げました。

彼の水軍は、大友氏の海上における重要な戦力であり、その存在は宗麟の九州制覇構想において不可欠でした。

佐伯惟定(さえきこれさだ)

佐伯惟定は、佐伯惟教の孫にあたり、祖父や父が耳川の戦いで戦死した後、家督を継ぎました。

島津氏の侵攻に対して徹底的に抵抗し、栂牟礼城(とがむれじょう)や支城を整備して防戦に努めました。島津家久の降伏勧告を拒否し、籠城戦を展開。豊臣秀吉の九州征伐では、島津軍を撃退するなどの活躍を見せ、秀吉から感状を与えられました。

後に藤堂高虎に仕え、大坂の陣などでも武功を挙げ、その生涯は激動の戦国時代を象徴しています。  

田原親賢(たわらちかかた)

田原親賢は、宗麟の正室である奈多夫人の兄(一説には弟)にあたるため、宗麟の側近として重用されました。大友氏一族である田原氏の傍系に入り、宗麟に服従しようとしなかった田原本家を牽制する役割を担いました。

永禄2年(1559年)には、田原親宏や佐田隆居らと共に豊前方面に出陣し、毛利氏に呼応した国人衆を攻略しました。永禄8年(1565年)には加判衆となり、臼杵鑑速の死後は国政の大部分を預かるようになりました。

天正6年(1578年)の耳川の戦いでは全軍の総指揮を任されましたが、島津氏に大敗を喫し、大友氏衰退の一因となりました。

親賢はキリスト教を嫌悪しており、宗麟のキリスト教への傾倒を批判していました。

関ヶ原の戦いでは西軍に与し、佐賀関の戦いで討死しました。

大友宗麟の家臣たちが築いた九州支配の実像|要点まとめ

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大友宗麟の治世は、有能な家臣団の存在なしには語れません。豊後三老や大友双璧をはじめとする多くの家臣たちが、それぞれの能力を発揮し、宗麟の九州統一という壮大な夢を支えました。

  • 大友宗麟の勢力拡大は多才な家臣団によって支えられていた
  • 豊後三老は宗麟の側近中の側近として政治と軍事を主導した
  • 立花道雪は下半身不随後も戦場で采配を振るった名将である
  • 高橋紹運は岩屋城で壮絶な籠城戦を展開し忠義を示した
  • 吉弘鑑理は宗麟の義父であり内政・外交に長けた重臣であった
  • 臼杵鑑速は軍事・外交両面で宗麟を支え続けた功臣である
  • 吉岡長増は政務に特化し豊後三老の一角を担った行政官だった
  • 佐伯惟教は水軍を率いて宗麟の海上戦力を支えた武将である
  • 志賀親次は父と異なり大友氏への忠義を貫いた岡城主である
  • 木付鎮直は島津氏の侵攻から木付城を守り抜いた防衛の要だった
  • 田原親賢は国政を預かる重責を担いながら耳川の敗戦を経験した
  • 若林鎮興は水軍として周防侵攻など海戦に活躍した実戦派である
  • 蒲池鑑盛は南筑後を守ったが内紛により戦死した悲劇の武将である
  • 角隈石宗は軍配者として戦術や天候判断で軍を支えた影の立役者
  • 大友家臣団は武勇と知略に富んだ人材が揃い九州支配の柱となった